最近、プログラミングのことよりも、頭の中のメモが多い理由は分かってる。たぶん6月末までこんな感じ。今日もそんな感じ。
宿題やりなよ
娘たちに「宿題やっときなよ」って言ってもあんまりやらない。気分が乗らないから。
でも、宿題をやる気にさせる方法なら分かってる。僕がリビングの机で勉強を始めるか、一緒に宿題をやろうとすればいいのだ。そうすると、娘たちも宿題をやろうという気分になってくれる。
なのに実際は「宿題やっときなよ」とだけ言ってツイッターを眺めてる。なので娘たちは宿題をやらなくて、僕はまた「やりなよー」って言うのを何回も繰り返してたりする。
どうしてだろう?
近道?
言ったらやってくれるのが一番はやい。だからそれで済ませたい、かな?だけど、よく考えるとそれは「僕にとって」一番はやいのであって。娘にとってはそうじゃない。
はて?僕がやりたかったことって何だっけ?って考えると、それは「娘が宿題を終わらせること」
あぁ、最初は「娘が宿題を終わらせること」を目的にして「やりなよ」って伝えるんだけど、そのすぐ後には「娘たちが自分の期待通りに動くこと」という目的に変わってしまってるっぽい。
遠回り?
自分の行動に対して、何か反応があって、結果が出てくる。絵にするとこんな感じか?
- 「宿題やりなよ」を入れると「お絵描きする」が出てくる。
- 「一緒に宿題やろう!」を入れると「宿題やる」が出てくる。
それが分かってるのに、僕は自分にとって最小の労力ですむ「宿題やりなよ」を選んで、娘たちの「反応」の部分が変わることで、「宿題やる」が出てくることを期待してる。ということか。
自分ではなく、娘たちが変わってよ、って思ってるってことか。
なるほど。
仕事でも見かける
これって、仕事でも見かけるなぁ。例は省くけど。
自分で変えられるのは自分の「行動」だけで、相手の「反応」は直接は変えられない。相手の「反応」は、自分の「行動」を通して変わる。
だから、望む「結果」を本当に手にいれたかったら、自分の「行動」を変えればいい。
宿題やりなよ
実際に僕が「宿題やりなよ」って言ってるときは「別にやらなくてもいいけど」くらいの気持ちだし、「いつか自分でやるようになるといいな」くらいの気持ちなんだろうな。
まぁ、たまには一緒に勉強しようかな。